お天気の話をしたい(2024-10-11 金曜日)

昨日は眠すぎて日記を書く前に寝てしまった。最近の急激な気温変化は体力をゴリゴリと削ってくる。少し外にいるだけで疲れてしまい、家に帰っても何もする気が起きず、そのまま眠る。こんな様子では先が思いやられる。今こんなに疲れているのは寒暖差の影響というだけで、冬になれば冬の体になるから大丈夫、だと信じたい。

日中、チャリを漕いで隣町へ行った。今日の天候は何もかもが完璧で、空も綺麗だし、風も気持ちいいし、暑すぎず寒すぎずちょうどいい気温で、チャリ日和だった。今年のような夏を過ごしていると、暑さで感覚も鈍り、鬱屈が溜まっていくばかりで、季節感を楽しむみたいなこともなかったが、今日のような天気だと忘れていた情緒の震えが戻ってくる。歌学の有心とかも、こういう季節感をとらえる情趣の味わいがあるんだろうなと思う。秋の歌とか。

薄い知識で適当に言ったが、実のところはよく分からない。ただ、気持ちいい天気だと自然と気分が良くなり、心に余裕が出てくるなとは思った。

日が落ちると肌寒くなるため、なにか温かいものが食べたくなる。最近は意思に反して体重が増加しているし、野菜をたくさん入れたポトフかミネストローネでも作ろうかと思い、勇んで買い物に行った。あぁ、なんて充実した日なんだろう。良い天気、落ち着いた一人の時間、丁寧な食生活、1ヶ月ぶりのかりそめ天国がある金曜日。ウキウキでウインナーやじゃがいもをカゴに入れて会計しようとしたら、財布を忘れたことに気がついた。キャッシュレス決済がよく分かっていないため、スマホパスモの残高も小学生の小遣い程度しか入っていなかった。一旦引き返して、ウインナーだけを買った。

ウキウキな日には、いつもこういうことが起きてしまう。ウキウキで映画を見て、買い物をして、お散歩して帰ったら家の鍵を失くしているとか、ウキウキで友達と水遊びをして、テンションが上がって遊具に飛び乗ったら膝を脱臼するとか。ウキウキな日を、ウキウキなまま終えられる一日は来るのだろうか。明日こそ、財布を持って野菜を買いに行こう。

ホットケーキの話をしたい(2024-10-09 水曜日)

特に長々と語りたいこともなく、大きな事件があったわけでもないが、今日あったことをツラツラと述べていく。

朝起きてホットケーキを焼いた。袋の裏に書いてあるレシピ通りに熱したフライパンを一度濡れ布巾に乗せて冷ましても、毎度1枚目はダーツボードみたいに同心円状の焼き目がつく。一度フライパンを冷ますのは、きっと焼き色が綺麗になるとかそういう理由だろうが、まったくお店屋さんのホットケーキみたいにならない。2枚目以降は何故か綺麗に焼き目がつく。そういう運命なのだろうか。

200gのホットケーキミックスを使って、大きなホットケーキを3枚焼いた。ホットケーキというものは、焼いているときはテンションが上がり、多大な自信をもって「10枚くらいいけちゃうよ!!」と思うのだが、いざ食べ始めると期待値を下回り、1枚の半分くらいを食べたところで飽きてくる。3枚とはいえなかなかの量だから、後半は涙目になりながら食べていた。

早く消費するために、バターやオリゴ糖をふんだんに使って食べていたのだが、食べ切ったと同時にお腹が緩くなりトイレへ駆け込んだ。「おなかの調子を整える」というキャッチコピーが印字されたオリゴ糖を横目で見ながら、腹痛に苦しんでいた。どうやら、オリゴ糖の1日の適切な摂取量は8~20gらしい。そんなことは知らずに、ホットケーキの味に飽き飽きしてオリゴ糖をダバダバかけていたため、適切な摂取量なぞゆうに超え、恐らく100g近くを消費していた。

元来お腹が弱く下しやすい体質であるのに、オリゴ糖の大量消費によって自傷行為をしてしまっていた。午前中だけで4回トイレに籠り、午後にも5回トイレに行った。そんなわけで、今日は嵐のような大荒れ具合だったため、夜は野菜と納豆ご飯だけにして、少し胃腸を休めることにした。オリゴ糖、気をつけよう。

祝・1週間(2024-10-08 火曜日)

日記を始めて1週間が経った。最初に想定していた感じの日記ではなく、そのとき思いついたことをダラダラと書き連ねているだけだが、それでも1週間続けられたのは嬉しい。

密度の濃い日常を送っていないと、長文だとしても文章に色が出ないのだなと感じている。人との接触も少なく、毎日同じ道を行き来して、飯食って屁こいて寝る。そんな詮無い暮らしをしているため、小さな幸せ発見!みたいなこともあまりない。狭い部屋で起きた、記憶にも留まらないようなことばかりを書いていてもあまり楽しくはない。だが結局は、テレビや本や自分自身のことなど、狭い世界での話ばかりである。

正しい日記の体裁もよく分からない。よく分からないから自由に書いている。些細なことでもいいから書き留めておけば、数年後見たときにホッコリするのかもしれないが、きっと数年後の自分も同じことを思っているであろうことばかり書いている。少し内容を変えてみようかとも考えたが、それはそれで自分を偽っている感じがして気が進まない。とりあえず今日は、些細なことを書き留めてみる。

4月に百均で買った洗濯バサミが、最近よく弾け飛ぶ。プラスチックのところが劣化したせいか、ハサミを開こうとしたらパンッと音を立てて弾け飛び、粉々になってしまう。百均ならそんなものかと思いつつも、実家で使っていたプラスチック製の青い洗濯バサミは、私が物心着いたときから家を出るまで、ずっと現役だったことを思い出す。

同じプラスチック製なのに、こうも耐久性が違うものか。なにか不思議な力があの青い洗濯バサミにあるのか。色々なことを考えつつ、今家にある洗濯バサミを開いたらまた弾け飛んだ。20個購入して、残りは6個。10月に入ってから立て続けに4個がおじゃんになっている。最後まで生き残った洗濯バサミには名前をつけてあげよう。でもきっと、その子も儚く弾け飛ぶんだろうな。それとも名前をつけたら自我が湧いて、耐えてくれるのかな。

そんなこんな言っているが、洗濯バサミが使えないのは普通に不便なため、次はステンレス製の弾け飛ばないやつを買おう。近いうちに買おう。物は丈夫なのが一番。名前なんかつけてる場合じゃないんだよ。

肌について語りたい(2024-10-07 月曜日)

肌が弱い。いわゆるアトピーであり、乾燥肌であり、敏感肌であり、しかしニキビやマラセチア毛嚢炎も出来やすいという最悪の肌質である。肌がもう少し綺麗なら、自分の性格ももう少し明るかったのではないかと思うほど、肌悩みに翻弄されている人生だ。

先日から右耳の中に吹き出物ができた。場所の説明が難しいが、調べてみたら耳甲介という部位で、耳の入口の手前にあって、外からよく見える平たいところに、膿を含んだ吹き出物ができた。耳の中だけではない。顔の右半分、主にこめかみや頬に謎の吹き出物が大量にできている。枕カバーも変えているし、右を下にして寝ないように気をつけているのに日増しに増えていく。これはもはや、ニキビとかそういう類のものではない気もするため、近いうちに受診したい。

夏になれば汗でかぶれ、冬になれば乾燥で粉を吹く。かぶれないように汗をよく拭き取って風通しのいい服を着ると、僅かな乾燥で湿疹ができる。粉を吹かないようにしっかりと保湿をして、長袖長ズボンを履いたら、ニキビができる。そのための薬を塗っては以下同じことを繰り返すため、「綺麗な肌」になったことがない。

小学生の頃から、毎晩風呂上がりに皮膚科で処方された保湿剤や薬を塗り、ひと月かふた月に一度は通院する。それでも普通の綺麗な肌にはなれない。なんて酷な体質なのだろうか。肌質が与える印象は大きく、世で言われる「清潔感のある人」は顔の造作の美醜を問わず、肌が綺麗である。清潔感などという曖昧ながらも重要な要素を、私は手に入れることができない。

肌のことを人から指摘されることも幾度もあった。不快感を与えないようにこちらが気をつけていても、不快感は相手側で勝手に沸き起こる感情であるため、デリカシーが欠如している人はすぐに言ってくる。申し訳ないという気持ちを抱きつつも、そのようなことを言ってきた人の顔や名前や言葉は未だに忘れていない。

子どもの頃、肌トラブルがあまりに辛くて泣きながら「いつになったら治るのか」と親に訴えたことがある。「大人になったら治るでしょ」と気休めの言葉をもらい、半信半疑のまま成長したが、大人になった今も変化は無い。体質なんかそう簡単には変わらない。金をかければ多少は変わるかもしれないが、最新の治療薬は目玉が飛び出るほど高いため、庶民が気軽に受けられるまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。

こんな恨み辛みを並べていても、肌質は変わらない。ただただ肌が強い人を見て、指を咥えながら羨んでいる。爬虫類の脱皮のごとく、まるっと一枚脱げればいいのにな、などとトカゲの脱皮動画を見ながら思うのであった。

葬送儀礼について語りたい(2024-10-06 日曜日)

YouTubeショートを見てたらこんな動画が流れてきた。

https://youtube.com/shorts/b3kfDR_QOlM?si=zfgp72S8k9Qc2WBY

先日「アヒルと鴨のコインロッカー」という映画も観たからこの喪葬方式が気になった。ちょうど家にあった、陶立璠『中国民俗学概論』という本を捲ってみたら、天葬(鳥葬・風葬・野葬ともいう)についての記述があり読んでみた。

天葬は古い葬儀方式の一種で史書中にも多く記載があるといい、『隋書』卷八十四「契丹伝」には、「父母死して悲哭する者は、以て壮ならずと為し、但し以て其 の屍を山樹の上に置き、三年の後を経て、乃ち其の骨を収めて之を焚く。因 りて酹ぎて祝ひて曰く『冬丹の時、陽に向かひて食す。若し我射猟せば、時に我をして多く猪鹿を得さしめよ』と」とある。

父母が亡くなったら遺体を山の木の上において、三年後に骨を回収して焼く。酒を捧げて祝いながら「私が狩りをするときは猪や鹿をいっぱいとらせてください」と言う、みたいな感じか。『冬の丹の時〜』のところがよく分からないので、そこが分かる人は教えてください。

本書には原始的な巫術行為に端を発すると書いてある。原初的な死生観についての話を見聞きすると、先祖を厚く葬るか否かで遺された者の予後が決まるというのをよく見る。別の書籍だが、「鬼」の起源もそういうところにあると前に読んだ。

インド、ミャンマーカンボジアなどの仏教国では天葬を行うらしく、アヒルと鴨のコインロッカーのドルジもブータン出身だから例に漏れない。

現在の日本人の価値観で見ると衝撃的な葬儀方法だが、日本でも死に場所に山深い場所を選ぶ人は多い。ただ人気が少ない場所だからという理由だけでなく、人間の根幹を成すような原始的な思想に基づいて、そのような場所を選ぶのではないか。都会の生活に疲れた人が、田舎移住で極端なゼロ円生活みたいなのを営むのも似たような原理ではないか、などと思った。

現在も行われている儀礼の表層的な部分を見るだけでは忌避感が生じてしまうかもしれないが、もっと遡って考えてみたら、単に残虐や非人道的などの言葉で片付くものではないと思える。100%共感はせずとも理解することで見えてくるものもあるよね、という話でした。

テレビの話をしたい(2024-10-05 土曜日)

テレビっ子である。といっても、かぶりつきでずっと見ている訳では無いが、同年代の人達と比べるとテレビを見ている時間が長いと思う。バラエティやドラマ、対談、教養番組など広く浅く見ている。

今日はオールスター感謝祭の日だが、ケンタッキーをドカ食いして気絶したように眠ってしまったため、最後の結果発表しか見られなかった。オールスター感謝祭を見ないのにテレビっ子を名乗っていいものかは甚だ疑問ではあるが、私が楽しみにしているのはその後の番組である。

オールスター後夜祭。これを見るために半年間生きながらえている、というのは過言だが、一年のなかでも指折りの楽しみだ。一年前の秋の後夜祭の「永田裕志の白目剥いちゃう?剥いちゃわない?クイズ」では笑いすぎて過呼吸になりかけた。意地悪な作問に翻弄されるたくさんの芸人たちを、深夜のテンションで見る。有吉さんの温度感がちょうどよく、とても面白いのに気疲れしない。そんな豪華な番組がオールスター後夜祭。後日TVerでも配信されるだろうから、見られなかった人には是非とも見てほしい。

テレビ離れという言葉が流布して久しいが、テレビ好きな自分にはあまり実感が湧かない。テレビ番組のくだらなさを揶揄する人も多くいるが、そのような人がたまたま見ている番組は、テレビっ子の私から見ても面白くないと思うことはある。ただ、腰を据えて見る必要もないのだから、頭を空っぽにして見ればそれなりに楽しめるポイントはあると思う。つい批判的な目線で見て「テレビは面白くない」と決めつけてしまうのは勿体ないと感じる。

自分の好きなコンテンツを、好きな時間に、好きなだけ見られる時代だからこそ、たまには何も考えずにボーッとテレビを眺めるのも悪くはない。何事も生産性や必要性を強く見出しすぎると疲れてしまうから、意味など無いゆっくりとした時間の流れを感じることも大切だろう。

先日放送されたスイッチインタビュー「北野武×村山斉」はやや腰を据えて見たが、これもまた面白かった。難しかったけど、面白かった。

知能が足りなさすぎて、急に稚拙な感想になってしまった。テレビ、サイコー。

映画の話をしたい(2024-10-04 金曜日)

映画が好きだ。ただ詳しくないし、脚本や演出の妙を論ずることもできない。数だってあまり見ていない。見るのは近々の邦画ばかりで、洋画は有名どころの作品さえ見ていない。でも、映画が好きだ。なぜ好きなのかは分からない。映画を好きな人になりたいだけなのかもしれない。

ということで、そんな曖昧な嗜好の骨組みに肉付けをして説得力を持たせるべく、往年の名作を観た。これもまた邦画であるが、「邦画」というより「日本映画」という言葉のほうがしっくり来る作品である。

江戸川乱歩原作で、三島由紀夫によって戯曲化された『黒蜥蜴』という作品だ。若かりし美輪明宏の美しさと、織り成す台詞の美しさを堪能していたら、終盤に一瞬だけ出演する三島由紀夫の存在感に全部持っていかれる、という作品だった。あまりにインパクトが強すぎる。カレー粉みたいだ。少量でもそれを入れたらもうカレー味になってしまう。

美輪明宏の存在感があったおかげで、映画の感想が三島由紀夫一色に染まらずに済んだ。そう考えると、美輪明宏は最適役であったと言える。

実は原作小説を読んでおらず、それどころかひと月前に初めて江戸川乱歩を読んだくらいだ。新潮文庫江戸川乱歩傑作選を買ったまま数ヶ月放置していて、気が向いたためようやく読み始めた。そうしたら、まぁ読みやすいこと。本を読むのにかなり時間がかかる自分でも、夢中になって読み進め、寝るのを忘れて夜中の3時くらいまでページを捲っていた。寝不足で翌日の活動に支障きたしまくりだったが、近年稀に見る充足感をおぼえた。

思えば、本を読むのが遅いくせに、小難しい新書や学術書を読んで、理解も進まず、あまり頭に入ってもこず、ただ「小難しい本を読んでいる自分」を楽しんでいるだけだった。それはもはや、趣味:読書ではなく、趣味:自分である。そんなことばかりだ。

私と同年代くらいで、読書趣味の人はきっと小学生の頃とかに『少年探偵 江戸川乱歩』を読んでいたのだと思うと、羨ましく思い、時間の不可逆性をひしひしと感じる。そのときの自分はそのときやりたいことをやっていたわけだから、後悔する必要も無いのだが、今後の自分を形作る幼少期の基盤として江戸川乱歩がいるのはカッコイイ。羨ましい。もう少年探偵という年齢でもないが、今からでも読んでみようと思う。

 

それにしても、三島由紀夫、凄かったな……