子供の頃はよく怖いと言われていた。目つきは悪く、声もハスキーで、言葉遣いも汚く、なんとなく粗暴な感じが端々から滲み出ていた。その頃は週5~6で運動をしており、動いても動いても有り余っている体力を発散するため、人や事物に強く当たっていた節があると自覚している。
運動をやめ、文化系としてのんびりと毎日を過ごし、意識してよく笑うようにしたら、怖いと言われることは少なくなった。ただ、未だに「話しかけにくい」「人を必要としていなさそう」と言われるのは、染み付いたスポーツ根性由来のものではなく、元来の私が持つ気質によるものなのだろう。
客観的に見たときの私の印象は、柔和とはかけ離れたところにあり、可憐やひ弱などと形容されたことも一度たりともない。
雰囲気が優しい人を羨ましく思う。私がどれだけ取り繕っても、ふとした瞬間のピリつきにより、相手が受ける印象は悪くなる。雰囲気が優しい人は、何をしていてもふんわりと柔らかい印象を与える。纏う雰囲気の硬度は、言語化しがたい非常に抽象的で感覚的なものであり、天性のものであると思う。どうしてもそのような人に惹かれる。堺雅人とか。
顔の印象も大事だが、私がより重要だと感じるのは喋り方と声質だ。若干迫力のある見た目だとしても、語りが優しいと印象は一気に好転する。たとえ汚い言葉を使っていても、語りの妙だけで随分と柔らかく思えるものだ。
夜間開講の授業をとっている。夜間部では、教員が全体的にピリついた喋り方をしており、一日の疲れから来る苛立ちが声色にあらわれている。みな一同にピリついているため、そのピリつき度合いの高低で、こちらが教員に抱く印象も変わってくる。
毎週木曜日にとっている授業のとある教員は、最もピリつき度合いが高い。言葉でもハッキリ「夜にやると疲れる。眠いし。」と言う。それは仕方がない。ただ、その疲労を発散するかのごとく物言いが厳しいのである。常に圧迫面接のような緊張感が漂い、みな萎縮しながら受講している。
そのような人を見て、自分はなるべく印象良く話そうなどと誓うのだが、意識するほど変になってしまい、人も離れていく。まったく世渡りが下手にも程がある。
そんな私の第一印象を、唯一「優しそうな喋り方」と言ってくれた人に出会った。初めてのことだったため、挙動がおかしくなり、壊れたサルのおもちゃみたいに笑ってたら、その人も引いて離れてしまった。手元に残ったのは、その人から貰った謎のガチャガチャのフィギュアのみ。どのような意図が隠されているのかまったく分からないが、とりあえず飾っておこう。