人の印象の善し悪しについて語りたい(2024-10-03 木曜日)

子供の頃はよく怖いと言われていた。目つきは悪く、声もハスキーで、言葉遣いも汚く、なんとなく粗暴な感じが端々から滲み出ていた。その頃は週5~6で運動をしており、動いても動いても有り余っている体力を発散するため、人や事物に強く当たっていた節があると自覚している。

運動をやめ、文化系としてのんびりと毎日を過ごし、意識してよく笑うようにしたら、怖いと言われることは少なくなった。ただ、未だに「話しかけにくい」「人を必要としていなさそう」と言われるのは、染み付いたスポーツ根性由来のものではなく、元来の私が持つ気質によるものなのだろう。

客観的に見たときの私の印象は、柔和とはかけ離れたところにあり、可憐やひ弱などと形容されたことも一度たりともない。

雰囲気が優しい人を羨ましく思う。私がどれだけ取り繕っても、ふとした瞬間のピリつきにより、相手が受ける印象は悪くなる。雰囲気が優しい人は、何をしていてもふんわりと柔らかい印象を与える。纏う雰囲気の硬度は、言語化しがたい非常に抽象的で感覚的なものであり、天性のものであると思う。どうしてもそのような人に惹かれる。堺雅人とか。

顔の印象も大事だが、私がより重要だと感じるのは喋り方と声質だ。若干迫力のある見た目だとしても、語りが優しいと印象は一気に好転する。たとえ汚い言葉を使っていても、語りの妙だけで随分と柔らかく思えるものだ。

夜間開講の授業をとっている。夜間部では、教員が全体的にピリついた喋り方をしており、一日の疲れから来る苛立ちが声色にあらわれている。みな一同にピリついているため、そのピリつき度合いの高低で、こちらが教員に抱く印象も変わってくる。

毎週木曜日にとっている授業のとある教員は、最もピリつき度合いが高い。言葉でもハッキリ「夜にやると疲れる。眠いし。」と言う。それは仕方がない。ただ、その疲労を発散するかのごとく物言いが厳しいのである。常に圧迫面接のような緊張感が漂い、みな萎縮しながら受講している。

そのような人を見て、自分はなるべく印象良く話そうなどと誓うのだが、意識するほど変になってしまい、人も離れていく。まったく世渡りが下手にも程がある。

そんな私の第一印象を、唯一「優しそうな喋り方」と言ってくれた人に出会った。初めてのことだったため、挙動がおかしくなり、壊れたサルのおもちゃみたいに笑ってたら、その人も引いて離れてしまった。手元に残ったのは、その人から貰った謎のガチャガチャのフィギュアのみ。どのような意図が隠されているのかまったく分からないが、とりあえず飾っておこう。

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食生活について話したい(2024-10-02 水曜日)

良い食生活とは何か。一汁一菜じゃ腹が減るから、一汁一菜三肉五飯くらいが理想なのだが、これでは金もかかるしタンパク質と炭水化物を摂りすぎている。食べることは好きだが、食べ物に金をかけすぎるのは躊躇いがある。

基本は家で適当に飯を済ませている。本当に適当である。2食入りの袋焼きそばを好んで買っており、焼きそばなら野菜も肉も麺も食べられるため、2日に1回は食べている。料理のレパートリーは乏しく、オムライス(のような汚い飯)と納豆ご飯とコーンフレークをローテーションさせて、なんとか生き凌いでいる。

コーンフレークを夜に食べることもある。バナナと一緒に、夜ご飯としてコーンフレークを食べている。コーンフレークだけでは足りない夜には、一緒に納豆ご飯も食べてしまう。ついでにウインナーを焼くこともある。そして、出来合いのサラダを日本酒で流し込み、寝床に着くのだ。食べ合わせの気持ち悪さで言ったらなかなかのものだろう。栄養バランスはまぁ悪くは無いと思うが、こんな生活を続けていたら自分の中での食の価値が低くなって、なんだかよろしくない気もしている。

先日NHKで、愛媛県とべ動物園で人工哺育で育ったホッキョクグマ・ピースの特集をやっていた。細かいところまでは覚えておらず、正確性に欠けるかもしれないが、そのなかで印象的なシーンがあった。近頃ペンギンがエサの魚を食べないということで飼育員が業者に問い合わせたら、仕入れ先が変わり鮮度が落ちてしまったとのことだった。業者から、そのままあげ続けたら食べるでしょ、と言われると飼育員は反論して「それは食べたいからではなく、飢えないために仕方なく食べているということ。動物のなかには、食べることを楽しみにしている子もたくさんいる。食えりゃなんでもいいというわけじゃない。」と、動物の生活の質を慮った発言をする描写があった。

ただ印象に残って覚えているというだけで、ここから何か大きな社会問題や人生課題について考えたというわけではない。単純に、生き物にとって食事って大事だよなぁなどとぼんやり思っただけである。

その特集番組を見た日の夜は、久しぶりにハンバーグとスープを作って食べた。自身の料理の才を感じずにはいられない、なかなかの出来であった。

いつもよりも少し良いものを食うと、いつもより少し元気になる。そんな当たり前のことを再確認しつつも、数日経った今日の晩はコーンフレークと納豆ご飯を食べた。今日もそれなりに腹が膨れて、それなりに満足である。

本を読む速さについて話したい(2024-10-01 火曜日)

本を読むのがとにかく遅い。遅いったら遅い。文字の読み書きに関して病気があるというわけではないが、文章を一節読むたびに何か考え事をしてしまい、頭のなかの雑音雑念が多い状態で文字の上を目が滑っていくため、もう一度同じところを読み返し、ある程度まで読んだらまた考え事をして……と、とにかく書かれている内容の意図理解をするまでに時間がかかるのだ。反芻ということでもない。ただ、頭の容量と処理速度が見合っていないがために、目の前の体系的な文章に集中できないのである。

頭の中がとにかく喧しいため、何かひとつのことをするとき、例えば先述した読書もそうだし、映画を見たり、料理をしたり、普通に歩いていたりするだけでマルチタスクになってしまい、混乱するのだ。

そんなわけで、これまでの人生において一冊の本を読了した経験が少ない。小中高と国語は好きで得意科目であり、大学も文学部である。しかし、立派な賞を受賞した有名作家の小説も読んだことがないし、誰もが知っているであろう近現代の純文学作品も読んだことがない。全く無いわけではないが、両手で数え切れるほどだ。

大学の講義を受けていると、本学OBだという偉そうな非常勤サブカル中年男性がやたらと古本街の話をして、自分がこれまでどれほどの数の本を読んできたかを語る。「俺は一週間に30冊読んだけど、文学部ならお前らもそれくらい読んでるよな?」と鼻を鳴らしながらこちらに投げかけてくる。彼の話を聞くたび、読んだ本を積み重ねていっても、必ずしも徳は積めるとは限らないのだなと感じる。

最近は、寝る前や移動時間など時間があるときに少しずつ本を読むようにしている。一週間で1冊も読めないようなペースだが、先刻の彼を思い出しつつ、心穏やかに読書をしている。

先日から島薗進『宗教学の名著30』という本を読み始め、合計読書時間5時間くらいでわずか70ページしか進んでいない。内容はとても面白く大変興味深い内容だが、読むのに死ぬほど時間がかかる。衝撃の遅さ。とりあえずはこれをなんとか読破し、少しでも今後の実りになればいいなとぼんやり思う。

日記を書きたい

日記を書きたい。

今まで何度か挑戦しても、長くて2ヶ月、短くて1日とあまりに継続力が無さすぎるため、この日記もいつまで続くかは分からない。

ツイッターは毎日欠かさず見ていて、ぼんやりと思ったことを短文で打ち殴ったりはするが、内容は中身のないことばかりで至極表層的な感情をぶつけているだけである。心と胃腸が弱いため、精神の好不調や肛門周りの失敗を吐露するという恥ずかしい使い方をしている。

以前、noteというものを使ってみたこともある。ただ、あまり性にあわなかった。他の人の記事を見ても、大したことを言わないのにもったいぶって、有料記事へと誘導しようとするのが好かない。アプリの説明も「noteは創作活動のための『街』です」から始まり、その後もツラツラと横文字を並べているのが好かない。嫌いな同級生がnoteでセックス関連の詩ばかり書いていたため、ユーザーのボリュームゾーンはそのような人々だと認識している。

noteの悪口は一旦置いておき、そんなことでとりあえず日記を書いていきたい。その日あったこととか、食べたものとか、行ったところとかを、ある程度の長さで書き連ねていきたい。

これが最後になるかもしれないが、なんとか継続できたらと思う。